かつて日本の各地では、多くの権力者が大小さまざまな国を乱立させていました。
戦国時代とは、国家を統治していた公家による中央政府が力ある地方の有力者を制御できず政権同士が権力や所領などをめぐって互いに長らく争いあった群雄割拠の時代のことなんですね。 
一般的に15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分であるとされています。
由来としては、「応仁の乱」以後の乱れた世を、当時の公家衆が古代中国の「春秋戦国時代」の乱世になぞらえて「戦国の世」と表現したことから用いられているそうです。
戦国時代をいつからいつまでとするのは諸説あるのですが、一般には「応仁の乱」のあった1467年から、徳川家康幕府を開き、豊臣家を滅ぼした1615年までと言われています。

利害衝突に端を発する衝突が・・・いわゆる「戦」が広く日本各地で行われ、国を強くするには土地と民を豊かにしなければなりませんでした。
争いの末、生き残って徐々に勢力を広げていった権力者が、後に「大名」と呼ばれます。
戦国時代の歴史の中でも、とくに知られているのが、足利氏が治める室町幕府の力が衰退し、力ある世の有力大名たちが相争った時代でしょう。
「毛利」「武田」「北条」「今川」「島津」といった名門から、優れた統治者が誕生し、黄金世代となった中でも、とくに類まれなる才能を持った英雄が『織田信長』です。
一つの号令のもと意思疎通を図ることができれば、争う対象がなくなり平和になります。
そんな思想のもと「天下布武」を唱え、首都である京都に上洛して当時の将軍である義昭を追放し室町幕府に代わって革命を起こそうとした人物でした。
天皇に認められた信長の影響により、安土桃山時代で戦国の世は終わったのでは?ともいわれていますけど、信長の勢力が及ばない地域では依然として各諸大名の争いは続いていたのです。全国を統治するために、中国の毛利征伐に着手しようとした矢先に家臣の明智光秀の裏切りにより信長は世を去ります。
その仇をとった『豊臣秀吉』が九州征伐を成功させて、圧倒的な物量・戦力差で小田原攻めで北条氏を滅ぼし、奥州の伊達政宗ら東北地方の大名も従えたことは、日本中の大名が関白になり究極の威光をもつ秀吉の許しをなくして勝手に戦争を行えなくなったのです。

しかしながら、かねてより信長を同格として支え続けた『徳川家康』と秀吉の懐刀といわれた石田三成との争いの火種が水面下でくすぶっていて、秀吉の死後には日本を東西に分けた最大の大戦「関ヶ原の戦い」に代表される大名間の争いが勃発してしまいます。その争いの勝者として将軍となった家康が下剋上により最後まで従わなかったかつての盟主である豊臣秀頼を滅ぼした「大坂夏の陣」をもって徳川政権による徳川幕府が生まれ、後の300年は徳川が治める世になり戦国時代の本当の終わりとされているようです。 

信長・秀吉・家康の三傑が活躍した時代に様々なドラマが生まれ、今の日本があるわけなんですね。
 

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